具志堅用高は1955年6月26日、沖縄県石垣市(石垣島)に生まれました。
地元の中学校を卒業後、沖縄本島に渡り興南高校に進学します。
もともとは野球部を志望していましたが、身長が足りないという理由で入部を断られ、ボクシング部に入ることになりました。
上原勝次、金城真吉、仲井真重次らの指導のもとで才能が開花し、3年次にはインターハイのモスキート級で優勝しています。
アマチュア時代の戦績は62勝(50KO・RSC)3敗でした。
強引な勧誘で協栄ジムへ
高校卒業後は拓殖大学商学部への体育推薦入試に合格していましたが、協栄ジム会長・金平正紀の命を受けたマネージャー高橋勝郎に半ば強引に勧誘され、協栄ジムに入門することになります。
上京後の生活は楽なものではなく、後援者の紹介で飯田橋のとんかつ屋でアルバイトをしながら練習を続けました。
5度目の世界王座防衛戦を迎える1978年頃まで、電話もテレビも冷蔵庫もない6畳一間のアパート暮らしだったといいます。
アマチュアではモスキート級で戦っていましたが、当時のプロ最軽量級はフライ級だったため、1974年5月のプロデビュー戦は体格で劣るフライ級での戦いとなりました。
この後、下の階級としてジュニアフライ級(現ライトフライ級)が新設されたことで転向し、ようやく本来の力を発揮できるようになります。
日本上位クラスに4連勝すると、1976年1月には世界3位のセサール・ゴメス・キー(アメリカ)との挑戦者決定戦を7回KOで制し、世界挑戦の切符を手にしました。
9戦目の世界初挑戦、「カンムリワシ」誕生
1976年10月10日、山梨県甲府市で”リトル・フォアマン”の異名を持つWBA世界ライトフライ級王者ファン・ホセ・グスマン(ドミニカ共和国)に、プロ9戦目で挑みます。
回転の速い連打で王者を圧倒し、2回、4回とダウンを奪うと、7回に3度目のダウンを奪ってKO勝ち。
沖縄県出身者として初めての世界王者となりました。
試合後、「ワンヤ、カンムリワシニナイン(自分はカンムリワシになりたい)」と語ったことから、「カンムリワシ」の異名が定着します。
9戦目での王座獲得は当時の国内最短記録でした。
前人未踏の13度連続防衛
初防衛戦は1977年1月、ハイメ・リオス(パナマ)との2-1の判定勝ち。
同年5月にリゴベルト・マルカノを、10月にはモンシャム・マハチャイを4回KOで下し、1978年1月にはアニセト・バルガスを14回KOで退けます。
同年5月には広島でリオスと再戦し、13回にKO勝ち。1979年1月にはマルカノとも再戦し、7回KOで7度目の防衛に成功しました。
これは当時の日本人世界王者の最多防衛記録(それまでは小林弘、輪島功一の6度)を更新するものでした。
同年4月にはアルフォンソ・ロペスを7回KOで下し、3度目の防衛戦以降6連続KOでの防衛を記録します。
1980年6月には高知でマルチン・バルガスを8回KOで下して12度目の防衛を果たし、当時のジュニアフライ級世界防衛回数世界記録を樹立しました。
そして同年10月、石川県金沢市でペドロ・フローレス(メキシコ)との苦しい試合を15回判定で制し、13度目の防衛に成功します。
この13度連続防衛は、日本人男子の世界王座防衛記録として、現在も破られていません。
王座陥落と引退
1981年3月、地元沖縄での凱旋試合として、前回対戦したフローレスとの再戦が組まれました。
序盤は悪くない立ち上がりでしたが、8回にダウンを喫すると、12回に再びダウン。
セコンドがタオルを投入し、王座から陥落しました。
本人は「途中の記憶がなく、ダウンしたことも翌日の報道で知った」と振り返っています。
この試合を最後に現役を引退しました。
プロとしての通算戦績は24戦23勝(15KO)1敗。現役時代には最優秀選手賞に5度選ばれています。
まとめ:破られていない日本人男子最多防衛記録
引退後は解説者やタレントとして活動する一方、1995年には日本人初の世界王者である白井義男とともに白井・具志堅スポーツジムを開設し、会長として後進の育成に力を注ぎました。
同ジムからは2017年、比嘉大吾がWBC世界フライ級王者となり、初の正規世界王者を輩出しています。
ジムは2020年7月に閉館しました。バラエティ番組での天然なキャラクターや「ちょっちゅね」という言葉でも広く知られていますが、現役時代の具志堅は、生来のサウスポーから繰り出す回転の速い連打と、勝負どころで踏み込む闘争心を武器にしたファイタータイプのボクサーでした。
13度の連続防衛という記録は、40年以上を経た今もなお、日本ボクシング史における最高到達点のひとつとして語り継がれています。



















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